タイトル未定。

コンプレックスは武器になる!

コンプレックスは武器になる!

どうも!現在、日本だけでなく世界中が大変な時期に直面していますね。まさかウィルスの蔓延によって人々の命や健康、経済に打撃が出るとは思っていませんでした。たまに、いま直面している現実が本当なのか?って気持ちになります。これが現実なのですが、スーパーやドラッグストアからトイレットペーパーや食材が綺麗に消えた光景を目にすると、やはり人々が肌で感じている危機的状況のレベルが今までとは違うんだなと思います。

手洗いうがい、アルコール消毒。食事、睡眠。どのニュースが真実であるか?を見極める。政府には経済政策をスムーズに行ってほしいです。(しないから、みんなの不安が消えない)200年続いた地の時代が終わり風の時代へと移り変わるので、メディアリテラシーの再確認、水瓶座的生き方を意識する事柄(他人や何かに依存せず、個を重んじ、個性で生計を立てる、社会の一員であることを自覚する)が起きているのかも知れません。誰かが代わりにやってくれる時代は終わります。自分の力を信じましょう。大変な時期ですが、生き延びましょう。

 

また前置きが長くなってしまいました。汗 今回の本題はコンプレックスは武器になるという話です。「コンプレックスは武器になる」、この言葉ってよく聞きますよね。ありきたりなことをブログにしたい訳じゃないのですが汗、でもやっぱりこの言葉って理にかなっています

コンプレックスって、自分が思っているほど周りはおかしいと思っていないし、むしろ誰かにとって愛しい個性だったり、また才能が隠れている場所なのかもしれませんさらけ出した方が自分自身楽になるし、さらけ出すと案外うまくいくことが多いです。

 

ちょっと私の話をします。(飛ばしてしまってもOK)

以前にもブログに書いたのですが、私は元々文章を書いたり話すことが苦手でした。感じ取ったことを自覚し、言葉として意識するまでにギャップがあるためです。例えば、人と話をしてる時に何か違和感は感じるものの、そこではそれが何かわからず、その人と離れて1人になった時に『あ、私あれを言われて嫌だったんだ』って気付く感じです。それが数日かかる場合もあります。あと、思ったことを口に出すことが苦手で溜め込むタイプでした。

文章の作成って、頭の中に混在する感情や意思を、綿から一本の糸を引き出すように論理的に順序立てて紡ぎ出す行為だと思っています。私は一本ずつ紡ぎだすことが苦手です。順番が分からなくなります。でも、外に出さないと自分の中に溜まる一方で苦しくなります。私は、自分の本心を押し殺して我慢して外に出さなかった結果、具合が悪くなりました。

そのため、正直な思いを外に出すことって、健康に生きていく上でとても大切だと思っています。多分、私たちは何らかの形で吸収したものををアウトプットしています。言葉(時に愚痴)、SNS、作品、態度、中には暴力、暴言の人もいます。インプットとアウトプット、どちらも行う事で循環がスムーズになり、自分と言う媒体がクリアでニュートラルな状態でいられます。

私は今も話すのは苦手なのですが、仕事でブログを書いたり文章を書くうちに、頭や心と指先に回路ができ、頭や心で感じたことが指先へダイレクトに流れるようになりました。ピアノを弾く感じです。

感じ取ったものが貯まっていく場所を体の中の海に例えると、書き始めた当初は、その放流口が石で堰き止められているような感じで、言葉が出てこない、文章にならなくて苦しい思いをしました。でも、無理矢理続けることで次第に流れるようになりました。

私の言葉は、優しくて安心できて癒される、涙が出たと言ってくださる方が居ます。自分ではけっこうキツいかな?って思うんですが、きっとその人がそう感じるのならそうなんです。苦手だと思っていた事柄をさらけ出して誰かを温められる。感謝される。それは私にとっても嬉しいことです。だから今は「書く」行為は、私にとっての一つの武器です。

 

やるしかない状況になったら、それがいくら苦手でもやるしかないのでそれなりに出来るようになります。そういう意味でも、苦手やコンプレックスって進みたい方向、才能に関係ないというか、やらない言い訳にならないと思うんですよね。

やってみることで出来るようになるので、やらない内から自信はつきません。自信って、自分でどれだけ挑戦したかなのかなってたまに思います。上手くいかなくても、取り組んだことで自信がつくというか。自信って目に見えないので、私もどれくらいあるのか分かりませんが、最近そんな気がしています。

 

流暢な話をする先生やアナウンサーの中にも、元々話すことが苦手だったと吐露する方が居ます。そんな風に見えないほど、堂々としていてわかりやすく話しているのに。ほかの誰にも真似できない歌詞を作り、歌を歌う椎名林檎さんも元々自分の声が嫌いだったそうです。今や多くの人々がその歌声に魅了され、生で聞きたいためにお金を払います。冨永愛さんも、身長がこんなにあることが昔は本当に嫌で自分が嫌いだった、と先日ドキュメンタリーで仰っていました。私からしたら、足が長くてなんでも着こなせてカッコいいです。

好き!を突き詰めて吉と出る場合もあるし、嫌いをさらけ出し、吉と出る場合もあるなって思います。

ただ、人と違う箇所、時に劣っているように見える部分は、あなたの個性が際立つ箇所であり、自分にとっては消したくて要らないものかも知れませんが、誰かにとっては羨ましい場合もあり、惹かれてやまない愛しいものになり得るのだと思います。それは容姿でも同じことが言えます。自分という存在は、自分の物差しだけでは量り切れません。人によって色んな見方があります。

人と違ってて、自分では嫌だったけど周りが目にとめてくれた。評価してくれた。いつまでもできないなと感じていること、それも多分ヒントですし、自分が劣等感を感じたり嫌だと思っていたことで、誰かが喜びや幸せを感じ感謝されたら、自分も嬉しいし、自分自身が癒されてウィンウィンだと思うんですよね。ウィンウィンっていいなって思います^^

 

長くなっちゃいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

LEAVE A REPLY

*
*
* (公開されません)

COMMENT ON FACEBOOK

Return Top